パン君とりー坊、その仲間のストーリーです。 |
2012年4月〜
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自宅で緩和治療を受けていたパン君。 食べられなかったけれど、飲み物はいいので、大好きなビールは飲んでいた。栄養は点滴で。 4月11日は自宅にG先生もお見舞いに。 その後熱が出て、4月14日にまた病院に入院になった。 ずっとみんなはラインで励ましたり、お見舞いに行ったり。 りー坊やまりえちゃん、美穂の地元組は何回も何回も病院に顔を出した。 タバコはオーケーで喫煙所に連れて行ってあげたりした。 その時は車椅子での移動だった。 地元組じゃないサラや甲斐君もお見舞いに行った。 東川君やタニザキもお見舞いに。 二期生だけではなく、四期生もお見舞いに。 私も5月3日に行った。 ベッドの傍らに奥さんがいて、挨拶をした。 「旦那さんは・・・、大丈夫か」 パン君は私に言った。パン君はちょっとしんどそう。 うん・・・。 「5月16日にまたお見舞いに来るね」 私は言った。あまり言葉は交わしていない。 翌日のこと。その日は体調がとてもいいと喜んでいた。 みんなも一緒に喜んだ。 ところが、りー坊がお見舞いに行ったその日、5月12日の夜から調子を落とし、意識もなくなり、そして5月13日の夕方、パン君が息を引き取ってしまった。 りー坊は、奥さんがパン君に「会いたい人はいない?」と聞き、中学の同級生のO君と高校の同級生のりー坊の名前を言ったそうで、それでそれぞれがその日お見舞いに病院に向かったそう。 パン君が亡くなったことは、私はまだピンと来ていません。 13日当日見舞いに行く予定だったよこけんがエレベーターを降りると、奥さんが「10分前に亡くなった」と告げたそう。13日はたくさんの親戚の方々が。 私たちは、りー坊のラインの書き込みにより知った。 何ということ・・・ みんな気が動転し、何が起こったのか、理解できない状態だ。 パン君はクリスチャン。 5月15日が前夜式で、16日が葬儀式とのこと。 私がお見舞いに行く予定だった日が葬儀式に。 式では、りー坊、甲斐君、林君、サラ、美穂、ゆきみちゃん、吉町君、山さん、タニザキ、東川君、谷下君、ドラ君、タンク、よこけん、東巻君、アシモ君、まりえちゃん夫妻、ひで君、そしてG先生の姿も。他にも男女の同級生がたくさん来ていた。 私は両日行った。もちろんりー坊も。 パン君は棺に横たわり、棺には十字架が付いている黒い布がかけられていた。 パン君はまるで普通に眠っているよう。 パン君が体調不良を訴え受診し、診断が出たのがおととし2011年の11月、病名は「原発不明癌」。12月より抗がん剤治療開始。抗がん剤治療をしながら、翌年7月に職場に復帰し、今年も会社勤務していていました。ここのところは緩和医療のために自宅や病院にいたが、現職のまま亡くなりました。診断を受けてから約3年半です。 牧師さんがパン君の行った先のところの説明と、それから残された奥さんとお子さんのことの心配を何回も何回もされていた。みなさんも協力して欲しいと。 それからみんなでオルガンの伴奏で、賛美歌を歌った。 前夜式が終わって私たちも「偲ぶ会」に参加させていただいた。そこでは、パン君の長男さん、次男さんと言葉を話すことができた。次男さんはまだ学生。 横にいたサラがパン君のお父さんと言葉を交わしていた。サラがお父さんに何か言うと、お父さんの目から涙がポロポロこぼれた。 翌日の葬儀式も終わり、私たちはパン君を乗せたバスを斎場の外で見送った。 G先生が「50歳か、早すぎる」と言った。 バスが出発する前、牧師さんがまた、パン君の行ったところの説明と、それから残された奥さんとお子さんのことの心配を何回も何回もされ、最後にみんなで「アーメン」と言った。 さよならパン君。 ユーモアがあり、いつもまわりを笑わせてくれたね。 私はまだピンとこなくて、そのまま書いているので、淡々とした文章ですみません。でも時間が経てば経つほど、きっとどう書けばいいのか書けなくなると思います。本当にごめんなさい。 |
2015.5.17 Vanilla記 |
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