ハゲ増す会始動する!

パン君とりー坊、その仲間のストーリーです。

2012年4月〜


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専門家の戸惑いと涙(バニラ家の場合)



 リュウの通院時代の話し。私はリュウの障害年金の申請のため、社会保険事務所に行った。順番が来て、名前を呼ばれたので所定の場所のイスに座り、私は目の前のスタッフの方に書類を渡して、返事を待っていた。一対一だった。何かまだ足りない書類とか、書き方がおかしいところとか、指摘されるのではないかと思っていたのだ。ところがスタッフの方が口を開くと、

「ここの窓口には、こういう人が来ます。また、こういう人も来ます」

と、ちんぷんかんぷんなことを話し出したのだ。私が、あ〜そうですかと適当に相づちを打ち、頭の中で、なぜこの人は突拍子もないことを話し出したのだろうと考えていた。そして気付いたのだ。

(この人は、私をなぐさめようとしている)

 話してくれている他の家族のケースがバニラ家よりも大変な状況だったのだ。

(自分でもそう思っていたけれど、あぁ、やっぱりうちは専門家の人を戸惑わせるほど困難なんだ)

 そういう風に思った。

 それからこちらもリュウの通院時代にこんなこともあった。

 私が仕事が終わった夕方から一時間くらい、ケアマネージャーさんの音頭のもと、バニラ家にリュウに関わっている専門家の人が集まり、リュウ本人も交えて、スタッフ会議をすることがあった。
 私に時間がないので、集合時間にワッと集まり、一気にそれぞれが気になっていることを出して、一気に解決策を提案しあうというもの。
 メンバーは、ケアマネージャーさん、訪問看護師さん、ディサービスのスタッフの方、それに役所の福祉の方が加わったことも。
 お茶も出さず、限られた時間で、問題をどんどん解決していくのだが、ある日のこと、その中のひとりの人の目から涙があふれた。次から次へと頬をつたい流れた。それを私は見たのだが、その人の涙にかまってられなかった。涙を流している本人もそうだし、ほかの人もそうだった。涙は、ずっと流れていた。その流れる涙は、すばやく問題解決していく会議には不釣り合いで、リュウ本人もいるし、自然と見なかったものとしてその場は終わった。

 でも、何年経ってもその涙を、私は、忘れることができない。

 バニラ家の困難さ、ピンと来ないかもしれないので、一つの例を書きたいと思う。

 私はフルタイムで仕事をしているのだが、緊急の場合会社に電話がかかってくる。それを私に取り次いでもらうのだが、かかってきた人は、いままで、リュウ、病院の人、救急隊員の人、ディサービスのスタッフの人、警察署の人、学校の先生、役所の福祉課の人など。消防隊員の人からはかかってきていないが、その一歩手前の状態の時があった。訪問看護師さんが家に入ると、家中が煙りで充満していたのだ。煙りの出どころは、魚焼きのグリルで、何も入っていないのに、火が点いていたとのこと。家の中にいたのは、リュウとワタル。どうやらリュウが点けたらしい。

 それに私の仕事中に緊急のことで電話をくれる人は、リュウに関係ある人たちばかりではない。リュウに関係ある人はもちろん、怪我が少なくない多動の、それもひとりで登下校していたワタルにだってあるし、高校生になった途端に、てんかんの大発作を起こすようになったイブキにだってあるのだ。

 私はいつからか覚悟ができていた。

 明日から、バニラ家のメンバーの誰かが欠けてもおかしくない。

と。大げさではなく、それは今もそう思っている。

 でもその思いは、最初から持っていていいものだったと、そういう風に思えてきた。

 だんだんとそう思えてきたし、東日本大震災を契機になお一層そう思えてきた。

 2011年3月11日の14時46分、北海道も揺れた。

 私は会社にいて、あまりにも大きな揺れでびっくりしてみんなで外に飛び出した。一回目の揺れがおさまり家族の安否が気になっていたら、ディサービスにいるリュウから私の携帯に電話があった。でもそれきり、電話はつながらなくなった。イブキもワタルも家にはいなくて、家族四人バラバラの場所にいた。
 会社でテレビをつけると、信じられない光景が目に入ってきた。想像を絶する巨大な津波が、東北に住む人の日常生活する場におおいかぶさり、のみ込んでいったのだ。言葉がなかった。普通のCMは入らなくなり、あきらかに非常事態だった。
 家に帰ると、私たち四人は会うことができた。

 でも・・・、3月11日の朝にわかれた人がもう一生会えないという人が、たくさんいたのだ。

 そのこともあって私はやっぱり、なおいっそうその思いを強くした。

 家族って、行ってきますと言ってわかれても、また再会できるとは限らないのだ。
 それは、家族に限らず、まわりの人や友だちもそう。

 天災、人災、病気に事故・・・。その原因はたくさんある。

 そうだ命には限りがある。そのことがわかったとしよう。だからと言って、じゃあどうしたらいいのか。
 後悔しないように、自分は毎日125%の力を出して、家族やまわりの人に接したらいいのか。
 そんなことずっと続くだろうか。

 ちがう。

 今の瞬間って戻らないし、明日もないかもしれない。今目の前にいる人は、ずっと一緒にいられるわけではなくて、もしかしたら、明日にはもういないかもしれない。

 そういうの、わかっているだけでいい。それだけでじゅうぶんなのだ。
 そしてそれがいつか、勇気とやさしさにつながる。

 でもこれって、言葉ではわかっても、わかるにはむずかしいかもしれないなぁ。


 話しはもとに戻るが、そんな専門家も動揺させてしまうような困難な家庭のことは、私は自分からまわりの人には語らなかった。知っているのは家族親戚、ごく親しい友だちだけだ。
 高校の掲示板は不特定多数の人が見るので、プライベートのことは一切書かなかった。

 そんなこと突然聞かされても、迷惑なだけである。

 私はずっとそう思っていた。こういう風に思ったのは、もしも私がバニラ家の困難をある日聞かされたらどう思うかという相手の立場に立って考えたから。

 突然言われたとしよう。

 今まで知っているバニラさんに、病気や障がいがある家族がいて、バニラさんも一人で何役もたくさんのことをしなくてはならないということを知ってしまった。バニラさん一家はとても不幸だし、可哀想だ。そしてこれからはそれらのことを忘れないでバニラさんと会話したり、気を遣わないといけないとなったら、こちらもすごく大変。もしもうっかり傷つけることを言ったらお互いがイヤな思いをし後悔する。今後の友だち付き合いにも影響を与えかねない。考えただけでも面倒。表面上の当たり障りのない付き合いで充分だった。だいたい、私がバニラさんの、バニラ家の重苦しい困難を、背負う必要などないのだ。

 と私だったらこう考える。

 私はその立場を崩さなかった。

 そう!りー坊を介して、パン君が原発不明癌を公表するまで。



今日で東日本大震災より、3年目の3月11日が来ました。
亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、
まだ、見つかっていない方、一日も早く見つかりますように。
重ねて被災された方のお見舞い申し上げます。

そして、私たちの子孫からの借り物の海、大地を汚染してしまう核はいりません。

2014.3.11 Vanilla記



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